subaru

まとめ的な乱文を書く場として使います。

情報発信についての妄想

最初の記事を書いてみましょう。

 

こういった手軽い感覚でもってTwitterなどSNSは情報を発信する場として世間に広く認知されている。

誰でも手軽に情報発信、本人にそのつもりがなくても私たちはいつの間にか情報を”発信する”側の人間として慣れてしまっている。

 

 少し前までは、誰しもが情報発信側になる、という状態は無かった。

 インターネットに接続する電子端末が未成熟であるのに加えて、それを使うユーザー自体もどういう使い方をすればよいのか、と模索している時期であったからという要素も含まれている。もっと言えば、インターネットを使って情報交換(情報の”発信”と”受け手”が同時に存在する)なんていうのは、世間のイメージ的にオタクのような危ない人種が行なっている、という認識だったはずだ。

 

 では、何故今は誰しもが”情報発信者”となっているのだろうか。

本来”情報発信”という一種の特権を持っていたのはマスメディアだけのはずである。彼らは自らをジャーナリストとし「国民には知る権利がある!」と大声を出し、自らが取材した内容をその特権を使って、それがどのような情報であるかという”受け手”側の取捨選択を無視し発信してきたはずだ。

しかし、今その特権階級は崩れている。

勿論、曲がりなりにも特権階級である。その影響力は大きい。彼らが語る情報を全て真実として飲み込み自分の世界を形成している人間もいるのだろう。

だが、今の世の中、少しでもSNSに接続出来るのであれば特権階級になることなく”特権”を使用出来るのだ。それが、マスメディアの特権階級崩壊の要因である。

 

 要するに、誰彼かまわず好きな情報を流したり取り込んだりしてるからテレビとか新聞とか見たり読んだりする必要はないよねーっていう話である。

 

 ゲームが好きなAさんは、SNSなどでそのゲームについて論じ批評評価を行い情報を”発信”する。これをまた、ゲームが好きなBさんが”受けて”それについて再び”発信”する。

好きな情報だけを見て好きな情報を得て好きな情報を発信する。

わざわざテレビ番組を見て情報を取捨選択する必要がないのである。まぁそりゃテレビ見る人も少なくなるよね、人って面倒くさがりだものという話。

 

 これはどのような人間であれ適用されるはずだ。

この流れが最も強く出ているのはTwitterではないだろうか。Twitterでは140字という制限はあるものの、自分で望んだ情報を”発信”してくれるアカウントを見つけフォローすれば(フォローするといった手間、取捨選択があるが)自分が望んだ情報だけが入ってくる。それを受けて自分が自分の好きな情報を発信するわけである。ただし、情報の取捨選択を放棄した結果、偏った情報だけを鵜呑みにしてネット右翼(あくまでも一例)になる、といった弊害も勿論存在する。

 

 

 僕がこういったブログを書いたとして、それは発信する側に立っている、といった自覚は少ない。

自分の文章が誰かに影響を与えるとはつゆほども考えちゃいないからである。開き直りというより、何が問題なのか、という問題意識すら沸かないのだから現代のSNS慣れというものは厄介である。