スキー2泊3日(2日目)
二日目。
前日の夜から天候が崩れ始めて、明日大丈夫かなーこれとか行ってたんですけど、かなり降ったようで車は埋まってました。(写真は朝6時頃)
朝食はバイキング形式でしたね。大した種類も無いのにバイキングにしてんじゃねぇよ、とか思いましたけど朝からガッツリ出されてもアレなので食べられる分だけ取りました。
(せっかくスキーに来たのに、俺に付き合って初心者コースだけじゃ面白くないだろうなぁ…)と思ったので友人を誘って丸沼高原スキー場の頂上へ行きました。
ゴンドラに乗って10分、丸沼高原スキー場の頂上に来ました。
正直に言うとゴンドラに乗ってる時間がこんなに長いとは思わなかったし頂上がこんなに高いとは思わなかったし斜度がこんなにキツイとは思ってませんでした。後悔しました。
ちょうど上級者コース解禁前だったので、頂上からの初心者コースで滑り降りました。
初心者コースとか言う割には中級者コースも兼ねているようで、スキー二日目の俺には地獄のような下りでした。
どれほど地獄かと言うと、斜度がキツイ場所で転んで吹っ飛んで、後から下ってきたボーダー達に声かけられるくらい心配されるレベルのコケ方でした。
ちょっと平坦な場所で板外して休んでたらスノーモービル乗った隊員がやって来て「大丈夫ですか?」とか聞かれました。多分声をかけてくれたボーダーが降りて知らせてくれたのでしょう。人の優しさに振れました。
上級者から見てだいぶヤバイコケ方をした後はだいぶ簡単なコースだったのでコケること無くレストランまで滑り降りました。
山頂からのコースがレストラン直通な辺りどうかと思いますが、ちょうど昼時だったので店内へ
1100円のハンバーグカレーです。
ハンバーグカレーは食べる度に、これ別々にしたほうがうまいな、って思います。忘れるからまた食べるんですが。
昼飯を食ったら友人とは別行動に。
要介護者である俺は初心者コースに、介護人である上級者の友達は再び山頂へ
やっぱ初心者コース楽しいなぁ、つってコースの端から端まで曲がりながら滑ったり直線でスピード出してみたりと滑ったりしてると、友人が山頂から初心者コースまで滑ってきたので合流。
俺はヤバイコケ方で首痛めたし、友達は運動不足で太ももがパンパンだし、前日のスキーの筋肉痛が来てるしで早めに引き上げることに
引き上げる前に小腹が空いたんで、友達と甘いものを食べることに
普通のケーキと普通のアイスでした。
値段だけが高級感出してましたね。
レンタルが1日か2日連続か、しか無かったので2日分のレンタルでしたので、引き上げる時に返却することに。
一日中スキーブーツを履いた後に普通の靴を履くと関節の有り難みがよく分かります。人の足は足首を曲げずに階段をのぼるようには出来てないわけで
再び白根山荘に帰って友達と全身がふやけるまで温泉に入りました。
どうでもいいですけど、温泉の効能とかって温泉協会とかそういうようなやつが調べるのではなく薬師寺協会が調べるんですね。
あとスキー場近くの温泉の癖に、効能に筋肉痛を治すのが無いのはどうなのって思いました。
合宿の高校生とかが戻ってくる前に温泉を出て、夕食へ
泊まるの最後だし飯は美味いし、いいやもう飲もうってことで高校生たちを尻目に瓶ビールを注文、夕食に舌鼓を打ちました。
美味しかったです。
後はもう友達と持ち込んだ酒をたらふく飲みつつゲラゲラ笑いながら夜中まで遊んでました。
その時に、YouTubeでラーメンズの公演見たんですが、友達がめちゃくちゃハマってくれました。今度DVD貸そうと思います。
二日目はこんな感じでした。
スキー2泊3日(1日目)
12月の26日~28日で群馬県にある丸沼高原スキー場(http://www.marunuma.jp/)へ行ってきました。
26日の朝8時に大宮に住んでる友人が車で地元まで迎えに来てくれたので、地元からは自分が運転しました。
東松山ICから関越自動車道に乗り目的地最寄りの沼田ICで降りて後はスキー場まで山道というルートです。
流石に友達の車で雪道を走るのは事故が怖いので、沼田IC前の赤城高原SAで運転を交代しました。写真は赤城高原SAでの一枚です。
ちょっとこの写真じゃわからないんですが、止まってる車から降りたりする人間はだいたいスキーウェアみたいなのを来てたり、ちらっと車内が見えた時にはスキー道具満載!って感じでビビりました。
赤城高原SAを過ぎると徐々に山の景色が雪化粧を施したものになってきて年に一度雪が降るか降らないかの場所に住んでる埼玉県民としてはテンションが上がる上がる(運転してる友達は毎年スキーしてる上級者なんで、雪に感動してなかった…)
沼田ICを降りると、割りと普通の街でした。
もっとド田舎をイメージしてたんですけどね、山間部だし、群馬だし。
沼田ICを降りてからは国道120号線、日本ロマンチック街道をひた走ります。
昭和感満載な名前の街道の通り、当時はスキー旅行客で賑わっていたであろう古ぼけたペンションの看板や、ぼろぼろのスキーレンタル店が街道沿いに沢山ありました。時代ですね。
120号線を走りスキー場に向かう途中、椎坂峠というおよそ8kmにも及ぶ細いぐねぐねとした峠道を通らなければスキー場に辿りつけません。
辿りつけないはずでしたが、幸運なことに今年11月22日からこのぐねぐねした峠道をぶちぬくトンネルが開通してました。
実際に通った時に友達のテンションが跳ね上がってました。峠道経験者はもうこのトンネル以外を通らないでしょう。
峠道の途中にあるオルゴール館は来年あたりには閉店しそうですね。
トンネルを抜けると、そこは雪国であった。
俺 「うぉぉ…」友達「ほー」
勝手に1人で興奮してました。雪に慣れてないからそんなもんです。
トンネルを抜けると後は特になし、俺は運転してもいないのに1人で雪道にビビってました。
(ひゃー!とか言ってた時の道)
友達の運転で沼田ICから走ること約1時間ほど、丸沼高原スキー場徒歩三分の白根山荘に到着しました。
本当はゲレンデ徒歩0分のシャーレ丸沼というところの方が良かったんですが、予約したのが12月の頭くらいのことだったんで、すでに満員でした。
なので、次に近くて安い場所は…ということでここになりました。
予想より早く11時に到着したので「チェクインまで時間ありまくりやん…」「取り敢えずリフト券だけでも貰おう」など話しながら山荘にお邪魔して、フロントでリフト券貰ってスキー場へ。
センターハウスでスキー初心者な俺は一式をレンタルしました(ウェアと道具一式を2日8500円)
レンタルのウェアはださいとか、ボロいとかそんなことは無かったです。
ただ、レンタルで始めてみよう!っていう人はスポーツショップか何かでウェアのサイズ位は確認しといた方がいいですね。サイズが分からなくて適当に借りて、一回交換してもらいました。
センターハウスを出ると、すぐスキー場です。
写真を撮影した位置でスキー板を履いたんですけど、正面にあるリフトまで登れませんでした。(友達はファンスキーですいすい登ってた)
賢い人はリフト横まで板を担いで登って、そこで履く感じですね。僕は30分くらい斜面と格闘して板を外しました。
初心者コースまで歩いて行くのは大変だし、センターハウス前のリフトに乗って初心者コースのリフトまで滑り降りようっていう甘い考えでリフト乗ったんですけど、アレですね、初心者は歩きましょう。
ちょっと記憶に無いんですけど(多分最初の一回転大転倒で記憶が飛んでる)どうにか頑張って初心者コースのリフトまで滑って行ったみたいです。
初心者コース:ブルーコース
大転倒&起き上がれない助けてとかで記憶を飛ばしつつ、なんとかブルーコースまで来ました。
小学生とか小学生以下の子供、大流行時に滑ってた老人が滑るコースなんて恥ずかしくて無理だわっ!なんていう感情はありません。基礎くらい出来ないと俺はこの雪山で滑ってる途中にコケて吹っ飛んで死ぬっていう感じです。人は失敗から学びます。
死にたくはないので初日はこの初級者コースで友達にいろいろ教えて貰って頑張ってました。
練習してたら昼を過ぎていたんで、初心者らしくハの字でスキー場内にあるレストランまで行きました。
1100円のカツカレーです。金銭感覚は転んだ時に抜けたみたいです。
美味しかったですね(雰囲気加味して)
飯食って滑って転んで起き上がれない助けてこうやって起き上がるんだよなるほどね駄目だ起き上がれないなどしてたらリフト終了の16時になりました。
リフト終わるの早いなー…って思ってたんですけど、山はあっという間に暗くなりますね。16時過ぎて滑ってたとしたら山荘までの道で遭難してたと思います。
センターハウスで着替えて、白根山荘へ。
白根山荘は元々は合宿用の団体客に貸している合宿所みたいな場所だったらしんですが、最近になって一般客にも貸し始めたらしいです。
それでも合宿は多いのか、部屋まで向かう通路ですれ違う合宿の人たちに「お疲れ様でーす」とか挨拶されました。
勘違いしてますね。僕は初心者コースで転ぶ人間です。
あとはもう夕食を食べて友達と酒を飲みつつテレビを見て日付が変わる前に寝ました。
(夕食)
こんな流れで1日目は終了です。
意識の低さ、その致死性。
今回は僕が感じる意識の高い人間の有害性についてつらつらと乱雑にまとめました。ふーん、みたいな感じで読んでくれると助かります。
「意識が高い」という言葉あります。
この言葉の、その意味を調べると「ある事柄について強く意識している。ある理念をよく理解している。」と出ます。
これは褒められるべき事象について使われるべき言葉でしょう。
例えば、環境問題に強い関心を持つ人の事を「環境問題に関して意識が高い」というように自分が興味を持ち、あるいは何かに備えてそれに対しての対策を取るために強く意識をする素晴らしい人間に対して使われる言葉であります。
これが貶める、あるいは他人を小馬鹿にされる時に使われるというのは本来はありえない、と思うのですが…
「意識の高い学生」という言葉があります。
上記で出てきた「意識の高い」に「学生」という単語を付け足したSNS上で発生した数ある造語の一つです。
この造語、区分的にはどうにも”就活スラング”と呼ばれるらしく、自己のセルフブランディングに一生懸命になっている人間に対して使われる、まぁ、どこかズレていて痛いと思われる就活生、あるいは学生に使われます。
様々な講演会に主体性もなく参加し、就活で面接時のネタを作るために学生を集めてよく分からないイベントを開いたりし、面接時では「学生時代は◯◯サークルの代表をしていて~」と語り始めるタイプの人間でしょう。また、そういった活動をTwitterやFacebookなどのSNS上で発信し意識の高い発言ばかりする。痛いと言われるとこういうのが真っ先に思いつきますが、大体合ってると思います。
別にこういう人種を否定するわけではありません。
自分の人生です。より良くするために努力している人間を否定出来るはずがありません。
「意識の高い学生」でも、方向性や力の入れ具合が間違っていたとしても、その努力や行動力は本物です。
僕はこういった本物の努力や行動力、あるいは自分が本当にやりたいことを見つけている人間がする「今日はこういう活動をしました」という報告が苦手です。
本当に苦手です。
彼らのその行動を見る度に意味のない焦りが生まれ、メンタルはボコボコにされます。公害と言っても差し支えないでしょう。
「自分は(彼/彼女)に比べて劣っている。(彼/彼女)はTwitterあるいは他のSNSで自分の歩みを見せれるというのに何だこれは」と言ったような思いが生まれます。
皆さんにもあるのでは無いでしょうか。あると願います。
人と比べて、自分がいかに劣っているかということを痛感することほど惨めな事はありません。
こういった原因が自分にあるものの、どうして良いか分からない焦りや不安のようなモノを抱えている、あるいは「出来ている人間」の影響力から発生してしまう気持ち悪さをどうにかする方法はあるのでしょうか。
僕がすぐに思いつくのは
・自分自身が「意識の高い」という属性を持つ。
・将来に向けての確かな意識、目標を持つ。
・思い出さないようにして忘れるために寝る。
くらいなものです。オススメは一番下になります。だって楽だから。
もう一度言いますが、人と比べて、自分がいかに劣っているかということを痛感することほど惨めな事はありません。
それがどんな些細な事でも、自分が太刀打ち出来ないものを見せ付けられ劣っているかを知らされるのは心に来ます。致命傷です。
他人の努力というのは致死性の猛毒に思えます。
その努力がどういった経緯でどのような労力を支払って生まれた”努力”なのか、想像することは出来ても実践することは出来ません。
その確固たる事実が僕のような、あるいは他にもいるであろう「将来に確かな目標や希望を持てず、進路先をすぐには決められないまま流され続けてきた人間」には羨ましく思え、また猛毒に感じるのです。
いつかこの猛毒が消え、代わりに誰かを毒するようになる時が来るのでしょうか。
まぁもう就活スタートが秒読み段階の今に自分の意識の低さを確認しているようでは、その”いつか”はいつまでたっても来ないものと思われます。
ブログについての乱文。
そもそもブログとはなんじゃらほい、という疑問が生まれたので適当にまとめる。
僕個人のイメージとしてのブログというのは、芸能人が「今日は料理作りました!」「舞台の稽古様子です!」など、凄い行間を開けまくって写真を貼り付けまくって掲載されているもの、それに有象無象のアッパラパー達が「感動しました…」というコメントを添えて出来ている一種のおばけみたいなものである。
では、ブログとは何なのか。
Wikipedia先生にお伺いを立てると、ブログとは
ブログ(blog)は、狭義にはWorld Wide Web上のウェブページのURLとともに覚え書きや論評などを加えログ(記録)しているウェブサイトの一種である。「WebをLogする」という意味でWeblog(ウェブログ)と名付けられ、それが略されてBlog(ブログ)と呼ばれるようになった
とある。なんと略語であったか。
ブログの始まりは、自分の好きな情報をニュースサイトなどを引用し評価しまとめた、どうも裏紙的な存在だったらしい。
現在では誰しもがイメージ出来る、個人的な日記や企業等の広報の情報発信の場としての意味合いが強いものである、とも書いてある。
ちなみに、ブログにも分類はあるらしい。
分類と呼べるほど種類分けされている訳ではない、というのが僕個人の感想ではあるが、詳しくは面倒臭いので日本語Wikipedia先生を覗いて欲しい。ここに書かれているブログの分類は日本人が行なっているブログの種類で書かれている。
エログ(elog,erog)という分類が存在するのも日本人のHENTAI性の現れであるとしか思えない。というかWikipediaにこんな不必要な分類を行うのも日本人だけであろう。業は深い。
まぁ日本人が読むことを想定して編集されたWikipedia先生なので、ちょっと軽い気持ちで調べようかしら、という人からしたら十分なのでしょう。
とここまでは日本人編集のWikipedia先生から得た情報。
ブログとは略語で日本人的な分類が存在して広義的な意味では日記帳と化してるよ~という話、らしい。
では少しだけ掘り下げたブログの概要。
前述した通り、ブログとは現在広義的な意味で用いられている「個人、もしくは数人のグループが運営する、日々更新されるwebサイト」として認知されている。
その内容が世界経済であるとか、政治であるとか、学問なのか、有名人がお料理したりだとかは様々ではあるが、広義的な意味で見ると全てブログとして扱われるそうなのだ。(少しでも現在の広義的な意味合いを無くすと、これらは同じものとしては扱われない)
ブログの前、ウェブログ(weblog)と呼ばれたそれの場合は現在の広義的意味合いを削り、時事トピックや専門的トピックスをまとめ、自らの意見や分析並びに評価を同時に掲載し、他のウェブログを開いている個人、あるいはグループとの意見交換を行うという形式であった。
この頃から”ブログ”をしていたサイトからすると、自分たちの「個人ニュースサイト」あるいは「専門トピックスサイト」の事を”ブログ”として呼ばれるのは嫌なのだそうだ。
どのジャンルにも古株新参の対立はあるのだな、という感想。
再び、ブログとは何なのか。
ブログが何故ブログと呼ばれるのかは分かった。ウェブログという前身があって、それが広まり広義的な意味合いで使わているのがブログというのも分かった。
では、ブログとは何なのか。
意外なことにブログとはこれこれこういう状態を指している!という狭義的にも広義的にもなる厳密な定義が無いのである。(僕の調べ不足であるかも知れないが)
自分の日記あるいは意見を掲載し、外部サイトとの連携が出来、コメントが出来る運営システム上で行われているもの全てを”ブログ”とする立場もあれば、前述したウェブログ派のコメントを削り掲載だけを行うものを”ブログ”とする立場もある。
曲がりなりにもブログという物を使っている立場である僕からすると、厳密な定義無し、というのは非常に気持ち悪いものではあるが、無いならしょうが無い。広義的な意味合いを一時的な定義として扱うしかないのでしょう。
将来、ブログの厳密な定義が決まったらこの乱文まとめを掘り起こして「うわ俺何書いてるんだろ馬鹿じゃないの」としたいものである。
参照:Wikipedia(日本語版、英語版)【ブログ(Blog)】
e-Words IT用語辞典 【ブログ(Blog)】
情報発信についての妄想
最初の記事を書いてみましょう。
こういった手軽い感覚でもってTwitterなどSNSは情報を発信する場として世間に広く認知されている。
誰でも手軽に情報発信、本人にそのつもりがなくても私たちはいつの間にか情報を”発信する”側の人間として慣れてしまっている。
少し前までは、誰しもが情報発信側になる、という状態は無かった。
インターネットに接続する電子端末が未成熟であるのに加えて、それを使うユーザー自体もどういう使い方をすればよいのか、と模索している時期であったからという要素も含まれている。もっと言えば、インターネットを使って情報交換(情報の”発信”と”受け手”が同時に存在する)なんていうのは、世間のイメージ的にオタクのような危ない人種が行なっている、という認識だったはずだ。
では、何故今は誰しもが”情報発信者”となっているのだろうか。
本来”情報発信”という一種の特権を持っていたのはマスメディアだけのはずである。彼らは自らをジャーナリストとし「国民には知る権利がある!」と大声を出し、自らが取材した内容をその特権を使って、それがどのような情報であるかという”受け手”側の取捨選択を無視し発信してきたはずだ。
しかし、今その特権階級は崩れている。
勿論、曲がりなりにも特権階級である。その影響力は大きい。彼らが語る情報を全て真実として飲み込み自分の世界を形成している人間もいるのだろう。
だが、今の世の中、少しでもSNSに接続出来るのであれば特権階級になることなく”特権”を使用出来るのだ。それが、マスメディアの特権階級崩壊の要因である。
要するに、誰彼かまわず好きな情報を流したり取り込んだりしてるからテレビとか新聞とか見たり読んだりする必要はないよねーっていう話である。
ゲームが好きなAさんは、SNSなどでそのゲームについて論じ批評評価を行い情報を”発信”する。これをまた、ゲームが好きなBさんが”受けて”それについて再び”発信”する。
好きな情報だけを見て好きな情報を得て好きな情報を発信する。
わざわざテレビ番組を見て情報を取捨選択する必要がないのである。まぁそりゃテレビ見る人も少なくなるよね、人って面倒くさがりだものという話。
これはどのような人間であれ適用されるはずだ。
この流れが最も強く出ているのはTwitterではないだろうか。Twitterでは140字という制限はあるものの、自分で望んだ情報を”発信”してくれるアカウントを見つけフォローすれば(フォローするといった手間、取捨選択があるが)自分が望んだ情報だけが入ってくる。それを受けて自分が自分の好きな情報を発信するわけである。ただし、情報の取捨選択を放棄した結果、偏った情報だけを鵜呑みにしてネット右翼(あくまでも一例)になる、といった弊害も勿論存在する。
僕がこういったブログを書いたとして、それは発信する側に立っている、といった自覚は少ない。
自分の文章が誰かに影響を与えるとはつゆほども考えちゃいないからである。開き直りというより、何が問題なのか、という問題意識すら沸かないのだから現代のSNS慣れというものは厄介である。